1927年、オランダ公使パブスト。
51. 1927年、オランダ公使パブスト、新築の公使館のための地鎮祭にて。(作者不詳, ゼラチン・シルバー・プリント (銀塩写真), 清水建設.)

人物
4. J・C・パブスト

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ハーグ • 1873年3月8日 – 1942年1月24日 • 東京

J・C・パブストは、1923年から1942年まで駐日オランダ公使を務める。パブストが公使に任命されたことに誰もが驚いた。彼は外交官ではなく、陸軍大将で、軍でのキャリアのほとんどをオランダ領東インド(現在のインドネシア)で過ごしたからだ。

1910年から1916年まで、彼は東京のオランダ公使館で、日本と中国担当の軍事外交官を務める。この経験があったため、東京に詳しく、知り合いも多く、日本語も話すことができた。この後あらゆる危機への対処をするには、うってつけの人物だった。

その一つに経済危機がある。1920年代後半から、オランダ領東インドと日本は、事実上の貿易戦争下にあった。そのピークの1934年には、オランダ領東インドの輸入のうち32%は日本からだったにもかかわらず、日本への輸出はわずかだった。1 貿易の不均衡により、オランダ領東インドの植民地政府は、日本に厳しい貿易規制を課す。また、別の危機は、日本の強引な領土拡張主義がある。1941年12月、日本軍が真珠湾を攻撃した際は、国交断絶に至る。

オランダのヘルマン・アドリアーン・ファン・カルネベーク外務大臣(1874年~1942年)がパブストに宛てた手紙によると、外務大臣はこれらの危機を見越し、パブストの軍人としての経験を重要視していたことがわかる。1921年、日本は太平洋の現状維持および領土保全を定めた四か国条約に調印。外務大臣は、この条約への日本の対
応を逐一報告するようパブストに命じる。外務大臣は、日本が太平洋での地位を確立しようとすると予想していた。パブストには「日本がどのように『中国を領土拡張計画に従わせている』かを見極めよ」と具体的な指示を出す。また、オランダ領東インドにとっても脅威である日本の「南方への領土拡張計画」に注意し、日本の陸軍および艦隊に「目を光らせておく」よう命じる。2

しかしパブストはすぐにこの任務を遂行することができなくなる。1923年6月に到着し、2か月半後、東京が関東大地震によって壊滅的な被害を受けたのだ。オランダ公使館は崩壊し、8名のオランダ人が命を落とす。数えきれない人々が家を失い、路頭に迷うことになる。状況は一変し、パブストは救援活動の指揮と新しい公使館の建築を迫られる。

その後ようやくパブストは本来の任務に戻るが、周囲は彼の主張を人騒がせだと取り合わなかった。パブストは日本に関して警告したが、オランダ領東インドを守る十分な対策は取られなかった。ジョセフ・C・グルーアメリカ大使(1880年~1965年)でさえ自身の日記に、パブストは「根本的に悲観的な人物」だと書いている。1936年、日本の海軍が「南方へ侵攻」し「オランダ領インドのうち石油を産出している地域」に向かっているとパブストがグルーに主張したときである。

しかしこれは1942年に現実となる。1944年に出版した自伝の中で、グルーは関連する章を「日本の南方への侵攻を予測していたオランダ公使」と題している。3

パブストの任期は、彼の希望に反して何度か延長される。1938年、ヤコブ・アドリアーン・ニコラース・パタインオランダ外務大臣(1873年~1961年)は、手紙に「君以外には務められない」と書き、もう一年職に留まるようパブストを説得する。4 1939年にヨーロッパで戦争が勃発した際もパブストは任期を延長され、1941年初めにも再び延長される。5

日本が同年12月に真珠湾を攻撃したときも、パブストは東京のオランダ公使だった。12月10日、パブストは日本の外務副大臣であった大橋忠一(1893年~1975年)に、オランダから日本への宣戦布告の書面を提出している。6 ほかの敵国の外交官たちと同様に、日本の役人はパブストに自宅軟禁を言い渡す。その後、彼は二度と自由を謳歌(おうか)することはない。1942年1月24日、パブストは心臓発作によりこの世を去る。70歳の誕生日まであと一年だった。

聖路加国際病院の聖ルカ礼拝堂で行われたパブストの葬儀は、異様な様相を呈する。戦時下で、敵対する国々の軍の代表者が、私服警官に囲まれた東京の礼拝堂に集結。自宅軟禁中の連合国外交官を含む各国の使節団長らが、日本の政治、行政、経済のリーダーたちと同じ屋根の下で一堂に会した。

葬儀の最後には、オランダ語の聖書にある讃美歌の一つとしてオランダ国家が歌われる。国歌斉唱中、礼拝堂にいた日本人を含む全員が一斉に起立した。日本のリーダーたちが、敵の栄光を称えていた。7

パブストの肩書は、陸軍大将かつ外交官だったが、彼の文化的遺産も非常に重要だ。アジアでのオランダ史にとても興味を持っていたパブストは、関連するスピーチを頻繁に行い、現存する記念碑の除幕式にも参加する。またパブストは、長崎のオランダ人を描いた江戸時代の木版画、長崎絵のほぼ完璧ともいえるコレクションを所有。8 現在パブストのコレクションの一部は、大英博物館が所有している。パブストが所有していた長崎絵は、今でも美術市場でたまに見かける。

パブストの功績で最もわかりやすいものを挙げるなら、間違いなく彼が建てた公使館だろう。第2次世界大戦で奇跡的に残った美しい建物は、現在はオランダ大使の公邸となり、オランダ大使館の顔である。

1925年、日本政府要人たちとパブスト。
1925年、日本政府要人たちとパブスト。日本初のオランダ交易所が置かれた平戸に建つ、日蘭親交記念碑の序幕を記念した絵葉書セットの一枚。 (作者不詳, コロタイプ/絵葉書, 211210-0040, MeijiShowa.)

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脚注

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  • 調査に使用した一次資料の一部は、アーカイブ(英語)をご覧ください。

1 Dick, Howard (September 1989). Japan’s Economic Expansion in the Netherlands Indies between the First and Second World Wars, Journal of Southeast Asian Studies Vol. 20, No. 2 (pp. 244-272), 246.

2 Nationaal Archief. 2.05.115 Inventaris van het archief van het Nederlandse Gezantschap in Japan (Tokio), 1923-1941: 98 Pabst, J.C., 1935-1941, 0434–0436. Letter of Minister of Foreign Affairs Van Karnebeek to Pabst, April 18, 1923:

“De sedert de Conferentie ten opzichte van China en Rusland door de Japansche Regeering gevolgde politiek schijnt er op te wijzen, dat die Regeering er ernstig naar streeft het wantrouwen weg te nemen, door haar optreden gedurende en onmiddellijk na den oorlog gewekt, en thans alles wenscht te vermijden wat als agressief zou kunnen worden beschouwd. De bedoeling daarvan kan wel nauwelijks eene andere zijn dan van de aldus te scheppen atmosfeer van rust gebruik te maken om Japan’s positie te consolideeren en daarvan zooveel mogelijk profijt te trekken. Het zou van het uiterste belang zijn, na te gaan in hoeverre de Japansche politiek, met name met betrekking tot China, wijziging ondergaat en in hoeverre Japan er in slaagt in even genoemd land zijne oogmerken te bereiken en China aan zijne plannen dienstbaar te maken.

Dat in niet mindere mate dient gelet op het geen geacht kan worden in verband te staan met plannen, tot expansie in Zuidelijke richting, behoeft wel niet uitdrukkelijk gezegd. Evenmin als dat een waakzaam oog dient gehouden op maatregelen op het gebied van leger en vloot.”

3 Grew, Joseph C. (1944). Ten Years In Japan: A Contemporary Record drawn from the Diaries and Private and Official Papers of Jospeh C. Grew, United States Ambassador to Japan, 1932–1942. April 25, 1936. New York: Simon and Schuster, 184, 224.

4 Nationaal Archief. 2.05.115 Inventaris van het archief van het Nederlandse Gezantschap in Japan (Tokio), 1923-1941: 98 Pabst, J.C., 1935-1941, 0010,0011, 0014, 0015.

5 Stolk, Dr. A.A.H (1997). Jean Charles Pabst: Diplomaat en Generaal in Oost-Azië 1873-1942. Zeist: Dr. A.A.H. Stolk, 116.

6 ibid, 106.

7 ibid, 119–121.

8 ibid, 117.

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引用文献

ドゥイツ・キエルト()・4. J・C・パブスト、出島から東京へ。2024年11月08日参照。(https://www.dejimatokyo.com/articles/61/jean-charles-pabst)

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出島にあったオランダ商館最後のカ ピ タ ン( 商 館 長 )であり、 日 本 で 最 初 の オ ラ ン ダ 外 交 官である。

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2. D・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルック

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