1863年から1865年の出島。
2. 1863年から1865年の出島。屋根付きベランダと旗竿のある建物がオランダ領事館。 (フェリーチェ・ベアト, 鶏卵紙, Dejima, KITLV 89931, Leiden University Libraries (ライデン大学図書館). 一部改変.)

場所
2. 長崎

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Map of Japan - Nagasaki

初の外交使節団

当初出島にあったオランダ商館は、政府公認ではなく、商館長(カピタン)によって運営されていた。1 1855年、最後のカピタンであるヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルティウスに「駐日オランダ理事官」の称号が与えられたことで状況は一変。商館長の屋敷(カピタン部屋)が、日本における最初のオランダ外交使節団となる。

2階建てのカピタン部屋は、島に入れる二つの入り口の一つである水門の近くにあった(図3、4)。1857年から1860年にかけて出島に滞在したヘンデリカス・オクタフス・ウィハースオランダ海軍士官は、日記にこの建物について記している。2

「出島には水門を通り入る。かつて船の荷揚げのときのみ開門されていたその水門は、今は終日開いており、夜に閉門される。水門を通り抜け、まっすぐ行くと、中心に大きな細長い石を敷き詰めた広い通りが見えてくる。右には番所があり、日本人や労働者、職人らの出島への出入りを見張っている。次に以前は蔵人が住んでいた空き家があり、カピタン部屋はその空き家の隣にある」。

1859年ごろの出島。
6. 1859年ごろの出島。ヘンデリカス・オクタフス・ウィハースオランダ海軍士官の1857年~1859年の日記より。赤で示した建物は、長崎の海軍伝習所のオランダ人教官37名のために建てられた宿舎。宿舎は1859年3月7日の夜に焼失。C棟には 「カピタン部屋」と書かれている。(ヘンデリカス・オクタフス・ウィハース, 紙に線描, Dejima zoo als het was vóór den brand in 1859, B II 108 A, Het Scheepvaartmuseum, 国立海洋博物館, アムステルダム.)
1852年ごろの出島。
3. 1852年ごろの出島。オランダ国旗で一部隠れている建物がカピタン部屋、後の領事館。1845年から1851年まで出島に滞在したカピタン、ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーンの回想録『ブラーデン・オファー・ヤパン』に掲載された地図。この風景はドンケル・クルティウスが見ていたものと変わらないだろう。 (J. Lobatto, コッパープレート・エングレーヴィング(銅版画), Decima, KITLV 51A3, Leiden University Libraries (ライデン大学図書館).)
1863年から1865年の出島。
2. 1863年から1865年の出島。屋根付きベランダと旗竿のある建物がオランダ領事館。 (フェリーチェ・ベアト, 鶏卵紙, Dejima, KITLV 89931, Leiden University Libraries (ライデン大学図書館). 一部改変.)

出島にある木造の日本家屋についてもウィハースはこう書いている。「内部は長さ1フィート(約30センチ)、幅0.5フィート(約15センチ)の美しい和風の壁紙(唐紙)が貼られ、外壁は洗練された真っ白な漆喰、あるいは黒く塗られた薄い板で覆われている」。3

1798年の大火で出島のほとんどの建物が焼失。カピタン部屋は1809年4 に再建され、1842年にピーテル・アルバート・ビックが到着する直前に改装された。5 1852年にドンケル・クルティウスが到着した当時は改装から10年後で、まだ良好な状態であったと推測される。

1845年に出島を去ったビックは、住居の見取り図をオランダに持ち帰っている(図5)。そこにはカピタン部屋が当時どのように使われていたかが記されていた。1855年に初のオランダの外交使節団となったときからほとんど変わっていないと考えられる。

見取り図には、大きな応接室と客間、事務室、入港する船を眺められるベランダ、寝室、そしてその隣にあった遊女の部屋(meidkamer)を含むいくつかの個室が描かれている。出島の習慣で、これらの部屋はすべて建物の2階にあり、1階は主に物置として使われていた。

カピタン部屋で30人ほどの日本人学生に近代航海術を教えていたウィハースは、「大名や知事といった重要人物を迎えるために、政府の経費で大きな部屋には豪華な家具が備え付けられていた。そのうちの一室には、王室の肖像画が金箔の額縁に飾られている」と書いている。6

1842年~1845年ごろのカピタン部屋間取り図。
5. 1842年~1845年ごろのカピタン部屋間取り図。ドンケル・クルティウスや、デ・ウィトの時代も同様の間取りだったと思われる。名前の後に記された数字は畳数で、部屋の大きさを示している。 (作者不詳, 紙に線描, Plattegrond van het hoofdgebouw van de factorij, 2.21.024 77, Nationaal Archief (オランダ国立公文書館), ハーグ.)
2006年に復元され、公開された商館長(カピタン)の屋敷の個室。
7. 2006年に復元され、公開された商館長(カピタン)の屋敷の個室。1820~1825年ごろの様子を再現している。 (ドゥイツ・キエルト, 60331-7852.)

出島との別れ

1859年、再びの大火で多くの建物が焼失。井戸は枯れ、干潮時のため消火のための水もない。救助に駆けつけた200名ほどのロシア人水兵が古い民家を壊し、ようやく鎮火する。7

彼らのおかげでカピタン部屋は難を逃れる。ウィハースが描いた出島の地図には、焼失した家屋が赤色で記されている(図6)。その図からは、カピタン部屋の数メートル先まで炎が迫っていたことがわかる。

この火災からわずか1年後の1860年に、ドンケル・クルティウス駐日オランダ理事官に代わり、総領事として着任したヤン・カーレル・デ・ウィトは、旧カピタン部屋に住み、そこを領事館とした。1863年に彼が日本を離れた後、領事館は横浜に移され、ウィハースが好んだ和風の内装も移設された。

出島に他国の外国商人が住み始めると同時に、日本におけるオランダの独自の地位は急速に低下しつつあった。2世紀以上に渡り日本におけるオランダの独占的拠点であった出島は、ついにその幕を閉じることになる。

1872年の出島。
1872年の出島。1. 後年のオランダ通商協会やオランダ領事館の事務所として使用されていた建物、2, 3. 日本初のオランダ外交使節団として使用された旧カピタン部屋。(作者不詳, 紙に線描, Map of Deshima, 1868, デンマーク国立博物館, コペンハーゲン.)
1868年の出島。
4. 1868年の出島。オランダ領事館が2号地と3号地にあった旧カピタン部屋。 (ライムント・フォン・シュティルフリート, 銀塩写真(鶏卵紙), Nagasaki, Desima, Main Street, Views and Costumes of Japan. H95.62/52. LTW 56, LaTrobe Picture Collection, State Library Victoria (ビクトリア州立図書館).)

総領事が長崎から横浜に移ると、オランダ通商協会の代理人、アルベルト・ボードインが領事に任命され、その時点ではオランダ領事館であった旧カピタン部屋に移り住む。

1865年1月16日、オランダ政府は旧カピタン部屋を競売にかけ、ボードインのものになる。8 彼が1868年1月に神戸に移った後、領事の任務はオランダ通商協会の後任者が引き継いだ。

1874年12月16日、ヨハネス・ヤコブス・ファン・デル・ポットが、イギリスのマーカス・オクタヴィウス・フラワーズ領事に引き渡すまで、領事館は旧カピタン部屋に置かれていたようだ。9 1875年1月5日付の手紙には、出島の領事館の旗竿が、大浦の外国人居留地5番地のオランダ商会事務所に移されたと書かれている。10

その後30年間、オランダの領事業務は次々と他国の商人や領事に取って代わられ、オランダにとって長崎はますます重要性を失っていく。

1890年、ミュラー=ベーク領事代理は、その前年に長崎港を訪れたオランダ商船が一隻もなかったことを報告している。長崎に住むオランダ人はわずか7名で、鎖国時代に出島に住んでいた十数名よりさらに減少している。11 1890年7月の会計帳簿の記載は12件で、領事業務においての経費もわずか7.79ドルだった。12

1910年代ごろの長崎の大浦海岸通にある居留地。
8. 1910年代ごろの長崎の大浦海岸通にある居留地。右側の赤煉瓦造りの建物がイギリス領事館。(作者不詳, コロタイプ/絵葉書, Kaigandori, 80107-0061, MeijiShowa.)

1908年、オランダの領事業務は、大浦6区のイギリス領事館に引き渡され(図8)、1941年に業務を終了。同年12月8日に日本軍が真珠湾を攻撃したとき、イギリス領事であったファーディナンド・セシル・グレートレックスがオランダの副領事代理を務めていた。

日本の憲兵隊は領事館を包囲し、グレートレックスと妻マーガレットを軟禁し、その後長崎郊外の学校に監禁する。1942年7月、グレートレックス夫妻は、交換船でようやく帰国の途につく。

第2次世界大戦後、長崎には名誉副領事館と名誉領事館のみが置かれていた。オランダが何世紀にも渡り存在した記憶は風化していく。やがて埋め立てとともに波に呑まれ、出島そのものも消えてしまった。

TIMELINE
1852 ヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルティウス、出島の新商館長になる。
1855 ヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルティウス、「駐日オランダ理事官」に任命される。カピタン部屋が日本初のオランダ外交使節団となる。
1860 ヤン・カーレル・デ・ウィト総領事着任。旧カピタン部屋が日本初のオランダ総領事館となる。
1863 総領事館を横浜に移転。旧カピタン部屋が領事館になる。アルベルト・ボードインオランダ通商協会代理人が領事に就任。
1865 旧カピタン部屋と旧書記生邸が競売にかけられ、4,250メキシコドルで落札される。
1874 領事業務は12月16日にイギリス領事館に移管され、旧カピタン部屋は領事館として最後の任務を終えたと思われる。
1941 12月8日の真珠湾攻撃によりイギリス領事館が閉鎖され、長崎でのオランダ領事業務が終了する。

次へ:3. 神奈川・横浜

What we still don’t know

(These questions are only shown on this site)

  1. Which consuls were honorary or vice-?
  2. What were the addresses after the consulates moved out of Dejima? Only the address of the British Consulate taking care of Dutch interests is known.

脚注

  • 脚注はこのサイトにのみ表示され、書籍には表示されません。
  • 調査に使用した一次資料の一部は、アーカイブ(英語)をご覧ください。
  • 生データはこの記事の研究ノート(英語)をご覧ください。

1 Dutch trade relations were based on a document that Shōgun Tokugawa Ieyasu had given to Dutch merchants in 1605. The first dutch trading station was set up at Hirado in Nagasaki. The Dutch were moved from Hirado to Dejima in 1641. The Dejima trading post was administered by a chief agent (Opperhoofd), since 1800 appointed by the Dutch colonial government in Batavia. Officially, the Opperhoofd was not a diplomatic representative of the Netherlands.

2 Wichers, Hendericus Octavus. Oorzaken der komst van een detachement van de Koninklijke Nederlandsche Marine in Japan, 1855-1860, B II 108 A, National Maritime Museum Amsterdam, 22.

3 ibid, 23.

4 Nagasaki City Council on Improved Preservation at the Registered Historical Site of Deshima (1987). Deshima: Its Pictorial Heritage, Nagasaki City, 296.

5 ibid, 297.

6 Wichers, Hendericus Octavus. Oorzaken der komst van een detachement van de Koninklijke Nederlandsche Marine in Japan, 1855-1860, B II 108 A, National Maritime Museum Amsterdam, 11–12.

7 ibid, 92.

8 Algemeen Handelsblad. Amsterdam, March 4, 1865, pp. 2. Also Nationaal Archief. 2.05.10.08 Inventaris van het archief van het Nederlandse Gezantschap in Japan, 1879-1890, 28: 0734 and 0736.

9 Nationaal Archief. 2.05.10.08 Inventaris van het archief van het Nederlandse Gezantschap in Japan, 1879-1890, 29: 0451.

10 Nationaal Archief. 2.05.10.08 Inventaris van het archief van het Nederlandse Gezantschap in Japan, 1879-1890, 36: 0009.

11 Nationaal Archief. 2.05.10.08 Inventaris van het archief van het Nederlandse Gezantschap in Japan, 1879-1890, 28: 0255.

12 Nationaal Archief. 2.05.10.08 Inventaris van het archief van het Nederlandse Gezantschap in Japan, 1879-1890, 28: 0251.

参考画像

以下の画像は、本書では使用していません。

Dejima in Nagasaki, 1865
Dejima in 1865. The flagpole with the Dutch flag marking the consulate building can be seen at the end of the island, near the Japanese boats. (Albumen print, Felice Beato, Dejima, 120820-0015, MeijiShowa.)
Dejima in Nagasaki Harbor, early 1870s
Panoramic view on Dejima in Nagasaki Harbor seen from Oura, early 1870s. (Albumen print, Dejima, 120821-0077, MeijiShowa.)
Dejima in Nagasaki Harbor
The Dutch Consulate at No. 3 Dejima flying the Dutch flag, ca. 1870. (Detail of: Albumen print, Dejima, 120821-0077, MeijiShowa.)

公開:
編集:

引用文献

ドゥイツ・キエルト()・2. 長崎、出島から東京へ。2024年12月10日参照。(https://www.dejimatokyo.com/articles/41/nagasaki)

深く知る

1863年ごろの出島の領事館(左の旗竿下の建物)。

場所
1. 出島から東京へ

オランダ公使館が長崎に始まり、横浜に移り、東京に行き着くまでの経緯。

東京・築地のオランダ領事館。

場所
6. その他の外交拠点

オランダ政府は長崎、神戸、大阪、神奈川、横浜、そして東京 の高輪と芝地区に加え、他にも活動拠点を持っていた。

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