オランダと日本の初期外交関係は、オランダ通商協会(NederlandscheHandel-Maatschappij、あるいはNHM)に触れずに語ることはできない。1824年、オランダ国王ウィレム1世の発議により、オランダ貿易の促進を目的としてオランダ通商協会が設立される。
当初の目的は、あらゆるオランダ貿易の促進だった。しかし1827年以降、同社はオランダ領東インド(現在のインドネシア)に焦点を絞る。当時、出島の交易所はバタヴィア(現在のジャカルタ)にあるオランダ領東インド政府が管理していたため、オランダ領東インドに力を入れることで、日本との貿易の道が開かれることが期待された。
1859年、オランダ通商協会は、アルベルトゥス・ヨハネス・ボードウィン(1829年~1890年)を長崎に派遣し、日本におけるオランダ貿易の管理を事実上バタヴィアから引き継ぐ。その後数年間で横浜(1864年)、神戸と大阪(1868年)、東京(1869年)、新潟(1869年)と、各地にオランダ通商協会のオフィスができる。
オランダ通商協会は当初、大変な成功を収める。日本とオランダの貿易の独占、そして長年築いてきた徳川幕府や大名との繋がり、この両方をオランダ通商協会は引き継いだ。およそ215年間に渡り、オランダは日本で貿易を許された唯一のヨーロッパの国であったため、確固たる信頼と深い親交が根付いていた。
しかし1868年に始まった明治維新と、それに伴う大名制度の廃止により、オランダ通商協会は日本国内における商業的地位を突然失ってしまう。一晩のうちに、顧客数は実質ゼロになる。商売をするための繋がりを、一から作ることになった。
この会社に注目すべき理由は、日本における商業活動ではない。日本におけるオランダ外交拠点の歴史を研究するにあたり、オランダ通商協会が重要である理由は、各地のオランダ通商協会代表者が、現地のオランダ領事になったことだ。
長崎、神戸、大阪、横浜、そして短期ではあるが、新潟と東京に設置されたオランダ領事館は、最終的にどれも同地域のオランダ通商協会オフィスに置かれることになる。
19世紀、貿易業者や商人が領事に任命されること自体はよくあった。しかし、ある国での領事の職を一つの会社が独占するというのは、非常に珍しいことだった。
これは、オランダ通商協会が設立初期、厳密には民間企業であったとはいえ、公共機関のような存在であったことが理由の一つだ。同社設立の目的はまさに、オランダ経済復興における国家のための役割を担うことだった。
あるいは、オランダ国王ウィレム1世が、オランダ通商協会設立に直接関わったことにより、ハーグのオランダ政府と、アムステルダムのオランダ通商協会取締役会の関係が緊密だったことのほうがさらに重要かもしれない。
領事が業務を行うのに必要な信頼の度合いを考えると、オランダ政府ができるだけオランダ通商協会内の人物を領事として任命したいと考えたのも当然だ。政府の視点からすると、領事による政治・経済の発展に関する報告書も、オランダ通商協会の人間が書いているほうが信頼できた。
こうした商人兼領事は外交的地位は持たなかったため、その公式の活動は在日オランダ人のための各種手続きなどの業務に留まる。それでも領事という社会的地位があることで、領事でなければそう簡単には得られない日本政府との連絡手段を得ることができた。
オランダ通商協会のこうした立場は、競合商社との緊張の原因となりかねないものであり、事実そうなる。『ア・パイオニア・イン・ヨコハマ』の著者であるコルネリス・テオドール・アセンデルフト・デ・コーニングらオランダ人商人や、商社カースト&レルスの代表者たちは、オランダ領インドと、オランダで発行される新聞に匿名の投稿を繰り返し送る。オランダ領事であり、後に総領事と公使も務めることになるディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックと、オランダ通商協会との間で癒着があると申し立てる内容だった。
この騒動は、問題となっている癒着疑惑について痛烈に批判した記事が、貿易と産業を扱うオランダ週刊誌『デ・ネダーランズ・インダストリエール』に掲載された1865年、一層過熱する。オランダ議会でも話し合われる事態となり、外務大臣はこの問題に関する手紙をデ・グラーフ・ファン・ポルスブルック個人宛にに送ったほどである。1 デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックが状況を説明し、その問題はやがて解決する。
しかし緊張は残った。1868年3月30日、ロッテルダムの日刊紙『ハンデルスブラット』は、「デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックのやり方について、日本の人々は特別良いと思っているわけではないようだ。そのやり方とは、暫定的に領事を任命し、任命されるのはほぼオランダ通商協会の社員であるというものだ」と書いた。
同紙は兵庫(現在の神戸市)に住む個人からの投稿を引用。「兵庫と大阪に領事がやって来たが、全員がオランダ通商協会社員だ。大阪では、領事となった21や22歳の若い青年に我々の権益を委ねなくてはならない。日本との条約は、オランダ通商協会の利益だけのために締結されたように見える」。2
これらの対立は1880年に終結する。新政権発足以降のさまざまな変化に適応することができなかったオランダ通商協会は、日本から撤退することになったのだ。オランダ通商協会は1919年に日本に再び進出するが、そのときには銀行業に転向しており、神戸に銀行のオフィスを構えることになる。
1964年にトゥエンツェ銀行と経営統合しABN銀行になった際、オランダ通商協会の社名から「通商」が消える。1991年、ABN銀行はアムロ銀行と合併し、現在のABNアムロ銀行となる。
執筆者のウィレム・コルテカースは、1965年から1990年までABN銀行 で働き、1969年~1975年及び1983年~1990年の期間、日本に配属さ れていた。彼は日本におけるオランダ通商協会の歴史を研究している。
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脚注
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1 Nederlands Archief. 2.05.01 Inventaris van het archief van het Ministerie van Buitenlandse Zaken, 1813-1870: Benoeming en ontslag van diplomatieke en consulaire ambtenaren: 3052 Japan, 1863 – 1870.
2 Nieuwe Rotterdamsche courant: staats-, handels-, nieuws- en advertentieblad. Rotterdam, March 30, 1868, pp. 2.
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引用文献
ウィレム・コルテカース()・商社と領事:二つの顔、出島から東京へ。2024年12月10日参照。(https://www.dejimatokyo.com/articles/73/trading-places)
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