1863年ごろの出島の領事館(左の旗竿下の建物)。
1863年ごろの出島の領事館(左の旗竿下の建物)。 (作者不詳, 鶏卵紙, SMA1.2A, Het Scheepvaartmuseum, 国立海洋博物館, アムステルダム. 一部改変. 詳細.)

場所
1. 出島から東京へ

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1850年代、日本はおよそ215年に渡る鎖国の後、通商条約に 調印し、数々の港を開港していく。それを契機に、日本は内戦状態 に陥る。

この急速に変化する政治・経済の環境のもと、在日オランダ人 外交官は、日本との新しい関係を築きながら、仕事のやり方を 探り、新たな仕事の場を見つけなければならなかった。

彼らは当初、1641年以来多くのオランダ人が居留していた長崎の出島にある商館にいた。11855年、ヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルティウスを「駐日オランダ理事官」と呼ぶことで、日本政府からの評価が上がり、通商条約の交渉に有利に働くと期待していた。

そのことにより、商館長の邸宅兼事務所が日本初のオランダ外交拠点に昇格。1860年にドンケル・クルティウスからヤン・カーレル・デ・ウィト総領事に引き継がれた後に総領事館となり、事実上日本のオランダ公使館となる。

1859年、ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックにより、最初のオランダ領事館は神奈川宿に開設された。1861年に横浜に移設され、その後10年に渡り、オランダ商人への支援とともに日本との貿易促進のため、他の都市にも領事館が開設されることになる。新潟と東京にも開設されるが、貿易に不向きな場所にあったため、領事館はすぐに閉鎖される。

確かに、ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックも、デ・ウィトも、日本政府との交渉の期間中は長応寺に滞在したが、ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックは横浜、デ・ウィトは長崎に住んでいた。3年間の日本滞在中、デ・ウィトが江戸を訪問したのはわずか4回だけだった。2

実際には長応寺は、数日間だけ利用されるのが一般的だった。3 オランダの外交官は常駐していなかったようである。

デ・ウィト総領事は長崎に留まったが、1859年に国際貿易港とし て横浜が開港すると、長崎に居留する利点がなくなる。外国商人の 多くは新港に住み着き、外国人外交官も江戸に公使館を開設した。

オランダ政府がこれを受け入れるには、かなりの時間を要する。1863年にデ・ウィトが日本を離れてから、ようやく長崎から領事館が移転された。

横浜を拠点としていたデ・グラーフ・ファン・ポルスブルックが新総領事に就任したため、横浜が総領事館の新たな所在地となる。長応寺も引き続き出張所としての役目を果たす。

1868年、デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックが日本初のオランダ駐在公使に就任すると、横浜の総領事館は現在の大使館に相当する「オランダ公使館」と正式に改称された。長応寺との賃貸契約が解約された1870年ごろには、横浜だけが公使館として機能する。

1886年、公使館は現在と同じ東京の地に移転し、1952年に大使館となる。

駐日オランダ王国大使館は、横浜で生まれたとも言える。1862年、日本で初めてオランダの外交施設が建設され、初代オランダ公使が駐在したのもこの地である。横浜は出島を離れたオランダ人の日本における最初の外交拠点であり、そこで初めて日本におけるオランダの正式な外交の基礎が築かれた。

TIMELINE
日本における主要なオランダの外交使節団の年表
1855 ヤン・ヘンドリック・ドンケル・ クルティウス出島商館長(カピタン)、「駐日オランダ理事官」の称号を受 け る 。出 島 の 商 館 長 の 屋 敷( カ ピ タ ン 部屋)が日本初のオランダ外交拠点 となる。
1860 ヤ ン・カ ー レ ル・デ・ウ ィト 総 領 事 が 出 島 に 到 着 し た こ と に よ り 、旧 カ ピ タン部屋が総領事館になる。江戸の長 応寺が出張所の役割を果たす。
1863 総領事館を横浜に移転。
1868 横浜総領事館が事実上、公使館となる。
1870 長応寺との賃貸契約を解消。
1886 公使館を東京の現在地に移す。
1952 公使館が大使館になる。

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脚注

  • 脚注はこのサイトにのみ表示され、書籍には表示されません。
  • 調査に使用した一次資料の一部は、アーカイブ(英語)をご覧ください。

1 Dutch trade relations were based on a document that Shōgun Tokugawa Ieyasu had given to Dutch merchants in 1605. The first dutch trading station was set up at Hirado in Nagasaki. The Dutch were moved from Hirado to Dejima in 1641. The Dejima trading post was administered by a chief agent (Opperhoofd), since 1800 appointed by the Dutch colonial government in Batavia. Officially, the Opperhoofd was not a diplomatic representative of the Netherlands.

2 See Note 3 in Edo-Tokyo based on Yokoyama, Yoshinori (1993) Dutch-Japanese Relations during the Bakumatsu Period: The Monthly Reports of J.K. de Wit, Tokyo: Journal of the Japan-Netherlands Institute, volume V pp. 1-260.

Interestingly, in another article, Yokoyama claims it was only three visits: Blussé, Leonard, Remmelink, Willem, Smits, Ivo (2000) Bewogen Betrekkingen: 400 jaar Nederland – Japan, Hilversum/Leiden: Teleac / NOT, 190.

3 That Chō’ōji was used for only very short periods of time becomes clear from the memoirs of De Graeff van Polsbroek, the writings of diplomats like Rudolf Lindau and Aimé Humbert, newspaper articles, and other sources.

公開:
編集:

引用文献

ドゥイツ・キエルト()・1. 出島から東京へ、出島から東京へ。2024年03月29日参照。(https://www.dejimatokyo.com/articles/60/from-dejima-to-tokyo)

深く知る

万延元年(1860年)の横浜の地図。

場所
3. 神奈川・横浜

神奈川県と横浜市のオランダ外交拠点。

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