1869年ごろのデ・グラーフ・ファン・ポルスブルック。
24. 1869年ごろのデ・グラーフ・ファン・ポルスブルック。 (フェリーチェ・ベアト, 鶏卵紙, SMA2.1B, Het Scheepvaartmuseum, 国立海洋 博物館, アムステルダム. 一部改変.)

人物
2. D・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルック

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アムステルダム • 1833年8月28日 – 1916年6月27日 • ハーグ

ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックは、非常に重要な功績を残した駐日オランダ外交官だ。近代における駐日オランダ外交使節の基礎を築き、最初の駐日オランダ公使(現在の大使にあたる)になった人物である。デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、プロイセン、スイスが日本と条約を結ぶ際に協力し、1861年に完成した横浜の領事館の建設も監督する。日本で初めてオランダの外交施設が建設されたのはこれが初めてである。彼は外国人外交官の中で、一番最初に明治天皇に信任状を提出した人物でもある。1

デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックは、レヘント(市長と共に政治を行った豪商)、市長、市会議員を輩出したアムステルダムの名家、デ・グラーフ家に生まれる。しかし彼はアムステルダムを出て、別の場所でキャリアを積んでいく。

オランダ領東インドの植民地政府で働いた後の1857年、デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックは、長崎の出島にあるオランダ商館に移り、ヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルティウス駐日オランダ理事官の補佐になる。デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックは、補佐として条約交渉に関わったり、理事官と共に江戸に赴き将軍に謁見したりする。1859年、横浜で副領事になった後、総領事、駐在公使に任命された彼にとって、長崎での経験が後年役に立つ。

デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックが外交官だった時代、日本は近代的な外交経験がなく、オランダは、領事の職務について明確な指針や権限を定める制度を確立していなかった。当時、二国間の連絡には何か月も要した。そのためデ・グラーフ・ファン・ポルスブルックは、激動の時代、何の指針もなく、オランダ政府と相談することもできないまま、次々と直面する難題への迅速な対応を迫られる。

命を落としかけたことも一度だけではない。1863年、オランダの軍艦メドゥーサ号で横浜に向かう途中、関門海峡で海岸から砲撃される(図25)。船員4名が死亡し、5名が負傷するが、デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックはかろうじて生き延びる。1868年1月、鳥羽・伏見の戦いの後、新政府軍が大阪に侵攻した際は、急きょ市外へ逃げなければならなかった。凍えるような寒さの中、略奪兵に見つからないよう、釣り小屋に一晩身を潜めたという。

幾多の危機を回避し、功績を残せたのは、彼の機転、良識、創造力があったからこそだ。

彼の稀有な性格と、問題解決能力の高さを物語るおもしろいエピソードがある。日本の運上所(税関)の役人は、オランダ商人が虎を輸入するのを許可しなかった。役人は虎は輸入品目に入っていないと主張。するとデ・グラーフ・ファン・ポルスブルックは、「それでは商人たちは虎を市中に放つしかありませんね」と伝えたのだ。虎の輸入はすぐに許可される。2

デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックは非常に有能だったが、自国オランダの政治には一切影響力を持たない。彼が外交官だったころ、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカが日本との外交上の立場を確立する中、オランダが優位性を急速に失っていくのを止めることはできなかった。

日本国内が落ち着きを取り戻し、近代国家の基礎が見え始めてきた1870年、デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックは辞職する。

オランダ軍艦メデューサ号。
25. 1863年、関門海峡にて。長州藩の砲台と戦闘中のオランダ軍艦メデューサ号。(Jacob Eduard van Heemskerck van Beest, カンヴァスに油彩, HMS Steam- Powered Battleship Medusa Opening the Shimonoseki Straits, SK-A- 2725, アムステルダム国立美術館.)

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推薦図書

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  • Moeshart, H.J. (2018) Dirk de Graeff and the opening of Japan 1857-1869, Amsterdam/Berlin: De Bataafsche Leeuw
  • Moeshart, Herman J. (1987) Journaal van Jonkheer Dirk de Graeff van Polsbroek 1857-1870 : Belevenissen van een Nederlands diplomaat in het negentiende eeuwse Japan, Assen/Maastricht: Van Gorkum

脚注

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  • 調査に使用した一次資料の一部は、アーカイブ(英語)をご覧ください。

1 Moeshart, H.J. (2018). Dirk de Graeff and the Opening of Japan 1857-1869. Amsterdam/Berlin: Batavian Lion International, 11.

2 Black, John R. (1940) Young Japan : Yokohama and Yedo, a narrative of the settlement and the city from the signing of the treaties in 1858, to the close of the year 1879 Volume I. Uedaya Shoten, 74, 75. Also: Moeshart, H.J. (2018). Dirk de Graeff and the Opening of Japan 1857-1869. Amsterdam/Berlin: Batavian Lion International, 103. Black mentions two tigers, Moeshart a single one.

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引用文献

ドゥイツ・キエルト()・2. D・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルック、出島から東京へ。2024年12月10日参照。(https://www.dejimatokyo.com/articles/54/dirk-de-graeff-van-polsbroek)

深く知る

1908年、レオン・ファン・デ・ポルダー

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3. L・ファン・デ・ポルダー

日本で最も長く勤務したオランダ人外交官。

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1. J・H・ドンケル・クルティウス

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4. J・C・パブスト

1923年から1942年まで駐日オランダ公使。関東大震災や第二次世界大戦の日蘭開戦を経験した。

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