新しい港
1868年1月1日、神戸港が開港。ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルック総領事は、オランダの外務大臣に宛てた手紙の中で、開港の瞬間は「12隻のイギリス軍艦、5隻のアメリカ軍艦、1隻のフランス軍艦による雷のようにとどろく祝砲」によって祝福されたと書いている。1
正午には、イギリス、アメリカ、フランスの国旗を称え、日本の軍艦「開陽丸」が21発の礼砲を撃つ(このときオランダ軍艦はいなかった)。開陽丸はオランダで造艦された3本マストの蒸気軍艦だ。開陽丸の礼砲に、英・米・仏の軍艦は再び礼砲によって応えた。
「現地の人々は、開港を喜んでいたようだ。彼らはハレの日の服装で、歌ったり踊ったりしながら通りを歩き、はしゃぎながら、港が外国との貿易に開かれたのがどれだけめでたいか表現していた」とデ・グラーフ・ファン・ポルスブルック総領事は書いている。
もしかしたら彼らが喜んでいたのは、高い家賃を見込んでいたからかもしれない。ファン・ポルスブルックが書いたある手紙によると、1か月の家賃が、家の値段の3分の1もしたという。オランダの日刊紙『ニューア・ロッターダムセ・クーラント』が掲載した匿名のオランダ商人が書いた手紙には、「1か月の家賃は家一軒と同額だった」とも書かれている。2
外国人商人と外交官用の住居がまだ建てられておらず、商人たちは法外な値段の家賃を払うしかなかった。約束されていたはずの外国人居留地は、ただの空き地だった。
神戸で最初の領事館
住宅が不足していたにもかからず、デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックの外務大臣への報告によれば、オランダ通商協会の局長兼オランダ領事のアルベルトゥス・ヨハネス・ボードウィン(1829年~1890年)には「素晴らしい寺院」が用意されていたという。寺院にはオランダ国旗がすぐに掲げられた。
デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックは寺の名前を記していないが、今回の調査によると善照寺が有力だ。本州西端に位置し、古都京都と下関を繋ぐ重要な西国街道沿いに建つ、由緒ある大寺院だ。3
善照寺は、旧神戸村の村会所の真後ろという大変便利な場所にあった。旧神戸村の村会所は、1868年初頭に明治政府が発足した後、維新政府の外国事務局として一時的に使用された(図52~54)。日本の政治家・官僚の伊藤博文は、兵庫県知事時代(1868年~1869年)にここを頻繁に訪れる。4 住所は現在の神戸市中央区元町3丁目で、元町駅に近い。
1868年2月4日(慶応4年1月11日)、数百人の備前岡山藩士らが西国街道を進んでいた。善照寺の前を通り過ぎて間もなく、藩士たちと外国人居留地の住人たちが、三宮神社の近くで揉めて小競り合いになり、銃撃戦に発展。この出来事が発端となり、神戸に領事館を持つ列強諸国の軍によって市内は占拠され、港では日本の軍艦が拿捕される事態となる。
明治維新において、朝廷が徳川幕府から実権を引き継ごうとしていた中で起きた最初の外交事件である。同事件は、備前岡山藩士の滝善三郎が、永福寺で切腹したことで解決する。
他国の公使館書記官らと共に切腹に立ち合ったオランダ公使館のレナードゥス・テオドルス・クラインテュス書記生は、その様子を報告書に書き記す。関係者と寺の内装について説明した後で、切腹についてこう描写している。5
たまたま神戸に居合わせ、事件に巻き込まれることになった各国の外交官たちに対し、日本の政権が将軍から天皇へ移ったのを証明したという点で、同事件は極めて重要である。
さらに重要だったのは、新政府が他国の外交官たちに要求された通り、この切腹に同意したという事実だ。明治政府が、外国人排斥(攘夷)から友好関係の構築(開国和親)へと方向転換したことを、正式に宣言される以前に、他国の外交官たちに証明したのだ。幕府が結んだ諸条約を明治天皇(明治政府)が引き継ぐという公式の宣言が最初になされたのは、3月後半になってからだった。
この事件は、設置間もないオランダ領事館にとっても歴史上重要な節目となる。
根を下ろした領事館
日本国内が落ち着きを取り戻し始めた5月ごろ、領事館とオランダ通商協会オフィスは、生田の馬場にある西洋風の住宅に移る。6 もともと生田の馬場は、海岸から生田神社へと続く美しい並木道だった(図55、56)。日本で2番目に古い歴史書である日本書紀によれば、生田神社は神功皇后によって3世紀初めに建てられたと記されている。新しい領事館の場所としては非常に由緒ある立地である。
興味深いことに、その住宅は外国人居留地の外にあった。アムステルダム出身の兄弟、エバート&マーテン・カスパー・ボンガーが建て、それをオランダ通商協会に貸したとされる。敷地内の様子についての記述は見つかっていないが、この住宅の写真が今回の調査で初めて特定された(図57、58)。7
1868年9月10日、外国人居留地の土地の競売が行われる。オランダ通商協会は、海岸通沿いの居留地5番という好立地の区画を購入。8 海岸通は海岸に面した大通りだった。居留地5番は広い区画で、神戸の主要な埠頭に近く、運上所(税関)からもそう遠くない便利な場所にあった。オランダ船の船長や商人たちは、用を終えるのに遠くまで歩かなくてもよくなる。
翌1869年の5月6日には、区画内のオランダ通商協会の倉庫の完成は近く、住居とオフィス用の建物の骨組みが作られたのは、10月27日ごろだったとされる。9 『ヒョーゴ・ニューズ』は、「頑丈な石造りの建物が2棟ある」と報じた。10
兵庫港開港から約2年半が経とうとしていた1870年5月ごろ、オランダ領事館はついに、海岸通り5番に完成した領事館専用の建物に移る( 図59~62)。11
この新しいオランダ領事館は、開港場で一般的な石と木を使った2階建ての建物だった。柱に支えられたコーナーポーチがあり、張り出した屋根がそれを覆っている。2階のバルコニーからは海岸通を見渡すことができ、日本風の傾斜のある屋根の上のバルコニーにが上がると、神戸港が見渡せた。
この領事館を設計した人物は不明だが、ボードウィン領事との親しい間柄を考えると、建築家であったボンガー兄弟が設計した可能性が高い。
領事館は同住所に、1877年ごろまであったと考えられている。
振り返ると、この区画を選んだのは非常に良い選択だったことがわかる。その後100年の間に、ドイツ、イタリア、アメリカ領事館、そして現在は商船三井として知られる、日本最大手の海運会社である大阪商船株式会社(OSK)のオフィスもこの場所に置かれることになる。1881年には、強い影響力を持っていた香港上海銀行(現在のHSBC)がすぐ近くの2番地に、そして1907年には、有名なオリエンタルホテルが隣の6番地に移転してくる。アメリカの女優マリリン・モンローをはじめ、世界的な著名人も多く泊まったホテルだ。
度重なる移転
1878年から1920年代初めにかけて、オランダ領事館は絶えず移転を繰り返す。12か所もの住所を経た後、京町72にあるクレセントビルディング(図63)に最終的に落ち着く。
これが神戸でオランダ領事館が置かれた最後の建物となる。1928年、J・C・パブストオランダ公使はオランダの外務大臣に手紙を送り、神戸の領事館は総領事館になるべきだと主張した。
このころ、日本とオランダ領東インドの貿易は急速に増加していた。日本の輸出相手国5位、輸入相手国8位がオランダ領東インドだった。パブストは当時の駐日オランダ領事館および副領事館の立場について、「日本全体から見た在神戸領事館も、横浜港とその近郊から見た在横浜副領事館も」もはやオランダの重要性を象徴するには不十分だと書いている。13
パブストの主張は聞き入れられ、1930年、神戸のオランダ領事館は、日本と関東州(遼東半島にある大日本帝国の租借地)の総領事館となる。14
クレセントビルディングは、あまりにも狭く騒々しかったため、その年の12月、総領事館は明石町32に建つ明海ビルディング内の3部屋あるオフィスに移る(図64)。15
明海ビルディングは、神戸でも有数の高層オフィスビルであり、総領事館の拡張にも容易に対応することができた。その後の10年間で、3部屋だったオフィスは倍になる。総領事の部屋、領事の部屋、総合オフィス、通訳と書記官の部屋が二つ、そして製図および物置用の部屋の6部屋である(図65)。16
第2次世界大戦によって閉鎖を強いられるまで、オランダ総領事館は明海ビルディングに置かれた。1941年12月13日、日本政府は同総領事館を閉鎖する。17
以後は、スウェーデンがオランダの利益代表国として、日本でのオランダ外交の代理を引き受ける。1942年2月25日、ヨハン・バーハード・ディエデリック・ペニンク総領事は、ローレンス・ヴィレーンスウェーデン領事に「公文書およびその他の所有物」を渡す。ヨハン・バーハード・ディエデリック・ペニンク、彼の妻、ニコラース・アリー・ヨハネス・デ・フォークト領事、その他に領事館の役人が2名、7月30日に避難するまでの間、ペニンクの住宅内に蟄居を命じられる。19
明海ビルディングは、1870年にオランダ領事館初の恒久的な所在地となった海岸5番地のすぐ近くだった。そこで領事館が閉鎖することになったのは、何か意味があるように感じられる。外国人居留地の中でさまざまな場所に移転し、居留地の外でも数か所を経て、領事館は居留地内の始まりの場所近に戻ってくる。まるで見えない輪が閉じられたかのように。
新たな始まり
1945年8月15日、大日本帝国が降伏し、連合国による日本の占領が2週間後に始まる。そのため1946年6月20日、スウェーデンはオランダの利益代表国としての役割を終える。20
この後、すぐに領事業務を再開できたわけはない。神戸や大阪周辺では領事が必要だったが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は「正式な領事館」や「領事館の役人たちが公式に仕事をすること」を禁止していた。その代わりに、西日本を担当するオランダ軍事使節団の臨時代表として、9月初頭にC・W・ブランドが任命される。
しかしGHQは具体的に以下のように強調。「東京のオランダ軍事使節団も、神戸の西日本担当軍事使節団も、現地にいる日本政府の役人たちと直接の公式な関わりを持ってはならない。大日本帝国政府の役人たちとの連絡が必要な際は、必ず連合国軍最高司令官の承認を得るものとする」。21
1946年10月8日、ペール・ビョールステットスウェーデン領事代理は、残っていた総領事の「書類と公文書」をブランドに引き渡す。22 山本通3丁目139にオフィスが設置され、その後すぐに山本通3丁目150に移される。23 1947年、神戸を拠点とした著名な洋画家・小松益喜はブランドの軍用ジープと共にこのオフィスの正面を描いている(図66)。
領事館はこの場所に数年間置かれる。その後、旧居留地の京町24にある東京銀行の建物内、オランダ国立商業銀行のオフィスに一時的に移ったのは1951年より前のことだと思われる。24
1951年には、日本は目を見張る発展を遂げていた。ペトルス・エフレム・テッペマオランダ公使は、財務大臣への手紙で「日本におけるオランダの経済的利益の発展、規模、性質を考えると、今一度総領事を神戸か大阪(関西地方)に置くべきだ」と主張し、そうしないことは「無責任だ」とまで書いている。テッペマは、神戸に総領事館が置かれた際には「シドニー、シンガポール、香港、あるいはサンフランシスコの総領事館と同等の重要性」を認められるべきだと考えていた。25
1952年4月28日に日本とオランダの外交関係が回復する1か月前、神戸市議会議長もオランダ総領事館の再設置を求める手紙を送っている。26 オランダ政府はそれを聞き入れる。1952年6月17日、戦後初の総領事に就任するため、W・H・デ・ローズが神戸に到着する。27
総領事館のオフィスはこのころ、明海ビルディングに戻ったと考えられている。28 1957年ごろには、生田区難波町64の電電ビルディング5階に移転。29 1977年まで同じ場所に留まった後、葺合区浜辺通5-1-14の神戸商工貿易センタービル20階に移転する。30
在神戸領事館時代の終わり
1995年1月15日の早朝、大地震が神戸とその周辺を襲う。神戸商工貿易センタービルは無事だったが、総領事館内はめちゃくちゃになってしまう。広報・文化部職員のハンス・カイパースは、地震後最初にオフィスを訪れ、大変なショックを受ける。「書類や落下したものが散乱し、ひどい状態だった。倒れていないものは一つもなく、金庫まで転がっていた」。
この大震災は、予想していなかった転換点となる。総領事館のオフィスは、数週間の間に西日本で最も利用者が多い梅田駅の向かいに建つヒルトン大阪の2726号室に移る。約3か月後には、大阪城のすぐ隣に建つツイン21MIDタワーに新しくオフィスを構える
(図70)。
こうして127年におよぶ神戸での領事活動は終わりを迎える。
大阪
長年に渡り、神戸のオランダ領事館の管轄に、大阪も含まれているとされてきた。しかし1868年1月1日に神戸と大阪が国際貿易に開かれた際、両都市にはそれぞれ領事館が置かれていたのだ。
初めは商人たちにとって大阪のほうが魅力的だった。神戸よりずっと大きく、商業都市としてすでに十分発達していたからだ。そのため、大阪に住むことを決めたオランダ人商人らを支援するための領事館が必要だった。
しかし大阪湾には大きな船が入ることができず、さらに嵐の中での上陸は命の危険さえあった。大阪は土地の値段も高かった。商人たちは最終的に神戸のほうが商売に都合が良いと気づくが、それまで大阪には大阪の領事館が存在した。
他の都市同様、大阪の領事館もオランダ通商協会オフィスにあり、オランダ通商協会の従業員ピーテル・エドゥアルド・ピストリウスが副領事を務めた。ピストリウスは「最もよく知られた日本人商人の一人」から住宅を借りたと、デ・グラーフ・ファン・ポルスブルック総領事は外務大臣への手紙で書いている。ピストリウスはここにオランダ国旗を掲げた。31
1月21日、クラインテュス書記生は日記に「ピストリウスは川口の外国人居留地にある自宅に移った」と書いている(図67)。32 しかし、それはあまり順調なスタートではなかった。わずか6日後、50キロ先の京都で内戦が始まる。
戦いは数日のうちに大阪にもおよぶ。将軍に謁見するため大阪に来ていた外交官を含む外国人全員が、神戸に避難することになる。しかし3月半ばには大阪に戻り、新領事館は業務を再開した。
日本の化学の祖として今日知られるオランダ陸軍軍医および化学者のクーンラート・ヴォルテル・ハラタマによって撮影された写真が残っており、当時の領事館の外観を見ることができる(図68、69)。オランダ通商協会の区画と領事館、それに加えて蔵も数棟あり、日本家屋が並ぶ様子は要塞のようだ。この区画は外国人居留地の端の梅本町にあった。
オランダ通商協会オフィスは1874年6月30日に閉鎖する。このころ領事館は4番箱館邸に移り、ヨハン・カール・ヤコブ・クラインが副領事を務めた(図67の5)。この区域はかつて箱館産物会所が使っていた場所で、住所は現在の靱本町3丁目だと思われる。33 T大阪の領事館は、閉鎖する1876年まで同住所に置かれた。
1995年以降
その後119年、大阪にはオランダ領事館は置かれなかった。1936年、オランダの外務省は大阪に新たな領事館を設置することを短期間検討したものの、不要だという結論に至る。34
しかし1995年の地震の影響で、神戸の総領事館が大阪に移ることになり、状況は一変する。
ツイン21MIDタワーに置かれた新領事館オフィスは素晴らしいものだった。大阪の一等地に建つ高層オフィスビルで、多くの一流企業や総領事が入っていた。
オランダ総領事館は当初6階の臨時オフィスに置かれたが、1995年12月には33階に新しいオフィスが完成し、1996年初めにスタッフはそこへ移る。1997年11月には大規模なオフィス拡張があり、総領事館は大きくリニューアルした。
大都市大阪を一望できる素晴らしい眺めと美しい内装に、訪れる人たちは感心した。それはスタッフも同じで、金曜の午後には、眺めの良い総領事の部屋で飲み物を片手に集まることもあった。
20年間ツイン21MIDタワーに置かれた後、再び変化が訪れる。21世紀の技術と社会の変化に伴い職場でも新たなトレンドが生まれ、オランダ政府は「ヘット・ニューア・ウェルケン(HNW = 新しい働き方)」のコンセプトに基づき、従来より柔軟な働き方の導入を迫られることになる。個別オフィスをやめ、オープンフロア型のオフィスを導入することを奨励している。
オープンフロア型のオフィスを採用することで、必要なスペースはより小さくなる。そのため2016年9月、総領事館は、大阪の北浜にある9階建ての北浜一丁目平和ビルに移転する。土佐堀川沿いに建つ細長い形のオフィスビル、その8階に位置する総領事館からの眺めは素晴らしく、土佐堀川と中之島公園を眼下に眺めることができる。
この総領事館が当時大阪市長であった吉村洋文によって正式に設置されたのは、同年11月15日だったが、実際の勤務開始日は9月19日であった。35
TIMELINE | |
---|---|
1868 | 神戸と大阪に領事館が設置される。 |
1870 | 神戸の領事館が、領事館初の恒久的な所在地となる海岸通5番地に移転。 |
1876 | 大阪領事館が閉鎖。 |
1930 | 神戸のオランダ領事館が日本と関東州の総領事館となる。 |
1941 | 12月13日、日本政府がオランダ総領事館を閉鎖(第2次世界大戦)。 |
1946 | 神戸の西日本担当オランダ軍事使節団の臨時代表が任命される。 |
1952 | オランダ総領事館が再開。 |
1995 | 阪神淡路大震災の後、総領事館は大阪に移転。 |
次へ:6. その他の外交拠点
場所
時期・住所 | |
---|---|
01 1868年1月〜5月 | 善照寺(現在の元町3丁目) |
02 1868年5月〜1870年5月 | 生田の馬場(ボンガー兄弟が設計した住宅)。 |
03 1870年5月〜1878年ごろ | 海岸道5番 |
04 1878年ごろ〜1897年 | 江戸町91番 |
05 1897年〜1899年 | 中山手通3丁目48番 |
06 1900年〜1902年 | 山本通5丁目諏訪山3番 |
07 1902年〜1903年 | 中山手通1丁目8番(未設定) |
08 1903年〜1909年 | 山本通2丁目45番 |
09 1909年 | 北野町1丁目125番 |
10 1910年 | 中山手通12番 |
11 1911年〜1915年 | 京町80番 |
12 1915年 | 京町78-B番 |
13 1916年〜1919年 | 京町81番 |
14 1919年 | 京町76番 |
15 1920年〜1922年 | 播磨町28番 |
16 1922年〜1930年 | 京町72番 クレセントビルディング |
17 1930年〜1941年 | 明石町32番 明海ビルディング |
18 1946年 | 山本通3丁目139番 |
19 1947年〜1950年(?) | 山本通3丁目150番 |
20 1951年 | 京町24番 東京銀行ビル |
21 1952年〜1956年 | 明石町32番 明海ビルディング |
22 1957年〜1977年 | 浪花町64 電電ビルディング5階 |
23 1978年〜1995年 | 浜辺通5-1-14 神戸商工貿易センタービル20階 |
住所は当時のものであり、現代の住所とは異なる場合がある。また、一部の年号はおおよそのものです。グーグルマップで所在地を確認する。 |
What we still don’t know
(These questions are only shown on this site)
- Was the first post-war location indeed at 3-139 Yamamoto-dōri, or was this a private address only?
- When was the consulate moved from 3-139 Yamamoto-dōri to 3-150?
- When was the consulate moved from 3-150 Yamamoto-dōri to the Bank of Tokyo Building?
- When was the consulate moved from the Bank of Tokyo Building to the Meikai Building?
- When was the consulate general moved from the Meikai Building to the Denden Building?
脚注
- 脚注はこのサイトにのみ表示され、書籍には表示されません。
- 調査に使用した一次資料の一部は、アーカイブ(英語)をご覧ください。
- 生データはこの記事の研究ノート(英語)をご覧ください。
1 Nationaal Archief. 2.05.01 Inventaris van het archief van het Ministerie van Buitenlandse Zaken, 1813-1870, 3147: 0079–0080.
2 Nieuwe Rotterdamsche courant: staats-, handels-, nieuws- en advertentieblad. Rotterdam, March 25, 1868, pp. 1.
3 These findings are based on a letter by Political Agent and Consul-General Dirk de Graeff van Polsbroek, entries in an unpublished diary of Chancellor Leonardus Theodorus Kleintjes, a hand drawn map in the National Archives at Washington, and a document at Kobe University Library.
- De Graeff van Polsbroek writes in Januari 1868 that the Dutch Consul had been assigned a “very good temple”: “Aan den Consul der Nederlanden te Hiogo werd op mijn verzoek een zeer goede tempel ter bewoning afgestaan en aldaar onmiddellijk de Nederlandsche vlag geheschen.” He does not mention the name of the temple, but “very good” limits it to just a few. Nationaal Archief, Netherlands, 2.05.01 Inventaris van het archief van het Ministerie van Buitenlandse Zaken, 1813-1870, 3147 1868-1870, 0080, January 6, 1868, De Graeff van Polsbroek at Hyogo.
- On February 20, 1868, Chancellor Kleintjes writes in his diary that he moved in with Kobe Consul Bauduin. He reports on March 12 that he arrives at the “Dsjendsjoodsjie” temple, the Zenshōji (善照寺), in Kobe, after his return there from a one week stay in Osaka. On his return he was met bij Bauduin when he was close to Kobe. The walks that Kleintjes describes in his diary are all feasible from Zenshōji, and repeatedly include Bauduin. Diary of the Dutch diplomat and commissionaire Leonardus Theodorus Kleintjes, 1867-1870, TY92058899, International Research Center for Japanese Studies.
- A hand drawn map of Kobe dated February 1868 has “Dutch Consulate” written at the approximate location of Zenshōji. National Archives, Washington. Despatches from U.S. Ministers to Japan, 1855-1906 Item: Jan. 2, 1868 – Apr. 8, 1868, 127.
- In the list of documents about the opening of Kobe Port at the Kobe University Library, there is a document dated March 11, Keio 4 (April 3, 1868) mentioning four Japanese individuals and the “Dutch Consul” at Zenshōji in Kobe in regards to a “lodging notification” (止宿届書). Kobe University Library, G2-0696 行政-願書・要望・請願伺届.
- On page 5 of History of Kobe by Gertrude Gozad, published in The Japan Chronicle, Jubilee Number 1868-1918, it is mentioned that the French consulate was initially located at Ikuta shrine, ruling this location out as the “very good temple” used by the Netherlands.
- Incidentally, Willem Conrad Korthals, who arrived in Kobe on January 1, 1868 and who became vice-consul and later succeeded Bauduin as consul, purchased a large piece of land right behind Zenshōji to build his residence. One wonders if he became acquainted with the plot and the owner because he stayed at the nearby temple. The lot was later purchased from Korthals by Hyogo Prefecture and used as the Hyogo Prefectural Office (Kenchō). It is now Hyōgoken Kōkan (兵庫県公館), also known as Hyogo House.
4 伊藤 博文, 1841–1909.
5 Nationaal Archief. 2.05.01 Inventaris van het archief van het Ministerie van Buitenlandse Zaken, 1813-1870, 3047: 0202–0203. “De veroordeelde was van 30 tot 34 jarigen leeftijd, van sterken lichaamsbouw en had een goed uiterlijk en eene middelmatige gestalte. Zijne kleding bestond in een wit onderkleed, een zwart bovenlaag, een blauwe ceremonie mantel en een donkere broek. Nauwelijks was hij gezeten of een der scherpregters bracht hem een klein wit greenen houten tafeltje, waarop een korte Japansche sabel in wit papieren schede was gelegen, toen dit voor hem stond hield hij met bevende stem en eene in hooge mate aangedane en bewogen gelaatsuitdrukking eene korte aanspraak, bij welke hij te kennen gaf, dat hij de persoon was, die den 11en dag der 1e Jap. maand aan de onder zijn bevel staande soldaten last had gegeven om op de vreemdelingen te Kobe te vuren en dat hij zich thans, voor boeting dezer daad, den buik zou snijden. Na dit gezegd te hebben ontblootte hij zich tot aan het middel van zijne kliederen, nam de korte sabel in de hand en gaf zich een steek in den buik, welke hem eene eenigzints gebogen houding deed aannemen, gelijkertijd bracht de scherpregter, die met een opgeheven blank zwaard achter den rug der veroordeelden het ogenblik had afgewacht waarop enig bloed uit de wonde spoot, den slag toe en scheidde in een houw het hoofd van den romp.”
6 The period when the NHM office and consulate were located at Ikuta no Baba has become clear from a rental agreement, a contemporary Japanese map, and ads placed in local newspaper The Hiogo News:
- One of the Bonger Brothers rents a house, and half of a storage house, on March 18, 1868.
- The 開港神戸之図 map locating the Dutch Consulate at Ikuta no Baba dates from the fourth month of Keio 4. This would be end April through May 1868 on the Gregorian calendar.
- May 6, 1869: European house occupied by NHM (The Hiogo News, May 6, 1869, pp 367)
- Mar 9, 1870: Ad: To Let. The House with Outhouses, at present occupied by H.N.M Consul, on the Temple Road. Apply to Bonger Bros. Next Door. Hiogo, March 9th, 1870. (The Hiogo News, March 16, 1870, pp. 35)
7 This study has also identified a photo held by Kobe City Museum which shows the consulate building. Until now the location of this photo was unknown.
8 The Japan Gazette, Sep 25, 1868, pp. 5.
9 May 6, 1869: Stone godown approaching completion (The Hiogo News, May 6, 1869, pp 367)
10 October 27, 1869: Stone Godown completed, “framework erected of two substantial stone buildings”—one a bungalow, to be used for residence, the other for business premises, etc. (The Hiogo News, October 27, 1869, pp 530)
11 May 25, 1870: Notice: Messr. Alt & Co. have removed their Offices to the premises lately occupied by the Netherlands Trading Society. Hiogo, 25th May, 1870 (The Hiogo News, May 25, 1870, pp. 167)
12 Finn, Dallas (1995). Meiji Revisited: The Sites of Victorian Japan. New York, Tokyo: Weatherhill, pp. 66.
13 Nationaal Archief. 2.05.38 Inventaris van het archief van het Ministerie van Buitenlandse Zaken: B-dossiers (Consulaire- en Handelsaangelegenheden), (1858) 1871-1940 (1955) [Stukken betreffende personeel en werkzaamheden van de Nederlandse consulaire vertegenwoordigingen in Japan]: 1372 Kobe, 1921 – 1940, 0320–0321.
14 ibid, 0291.
15 Nationaal Archief. 2.05.115 Inventaris van het archief van het Nederlandse Gezantschap in Japan (Tokio), 1923-1941: 108 Kobe, 1923-1937, 0143, 0144, 0146.
16 Nationaal Archief. 2.05.116 Inventaris van het archief van de Nederlandse diplomatieke vertegenwoordiging in Japan (Tokio), 1946-1954: 327 Stukken betreffende de overname van het archief en andere eigendommen door de Nederlandse vertegenwoordiging te Kobe in bezit van de Zweedse consul 1946, 0017–0026.
17 ibid.
18 ibid.
19 Lottaz, Pascal, Ottosson, Ingemar, Edström, Bert (2021). Sweden, Japan, and the Long Second World War: 1931–1945. 218.
20 Nationaal Archief. 2.05.116 Inventaris van het archief van de Nederlandse diplomatieke vertegenwoordiging in Japan (Tokio), 1946-1954: 421 Stukken betreffende het Nederlandse consulaat-generaal te Kobe 1946-1953, 0088.
21 ibid, 0086.
22 Nationaal Archief. 2.05.116 Inventaris van het archief van de Nederlandse diplomatieke vertegenwoordiging in Japan (Tokio), 1946-1954: 327 Stukken betreffende de overname van het archief en andere eigendommen door de Nederlandse vertegenwoordiging te Kobe in bezit van de Zweedse consul 1946, 0005.
23 A letter of the Head of Mission J.B.D. Pennink to Brand is addressed 139 Yamamoto-dori 3 chome. Nationaal Archief. 2.05.116 Inventaris van het archief van de Nederlandse diplomatieke vertegenwoordiging in Japan (Tokio), 1946-1954: 421 Stukken betreffende het Nederlandse consulaat-generaal te Kobe 1946-1953, 0074.
Nationaal Archief. 2.05.116 Inventaris van het archief van de Nederlandse diplomatieke vertegenwoordiging in Japan (Tokio), 1946-1954: 315 Stukken betreffende de behuizing van het Nederlandse missiepersoneel in Tokio 1946-1951, 0024 mentions 150 Yamamoto-dori 3-chome in Kobe. This information is undated.
In an interview by Kjeld Duits, the painting by Komatsu Masuki was identified by a former neighbor of the consulate as having been located at number 150.
150 Yamamoto-dori 3-chome is also the address given for the “Netherlands Military Mission in Japan, Kobe Branch” in the Directory of Trade and Industry, published by the Directory Committee of Hyogo Prefecture, Kobe, Japan in 1948.
24 Kobe Directory of Foreign Firms 1951.
25 Nationaal Archief. 2.05.116 Inventaris van het archief van de Nederlandse diplomatieke vertegenwoordiging in Japan (Tokio), 1946-1954: 421 Stukken betreffende het Nederlandse consulaat-generaal te Kobe 1946-1953, 0034–0037.
26 ibid, 0028.
27 ibid, 0020.
28 The Kobe Business Directory of 1953 and 1956, and the Kobeshi Shōkō Meikan (神戸市商工名鑑) of 1954 give the Meikai Building as the address.
29 Current address: Sannomiya Denden Bldg., 64 Naniwamachi, Chuo-ku, Kobe (〒650-0035 兵庫県神戸市中央区浪花町64・三宮電電ビルディング).
30 Current address: Kobe C.I.T Center Building, 5-1-14, Hamabedori, Chuo-ku, Kobe 651-0083 (〒651-0083 兵庫県神戸市中央区浜辺通5丁目1−14・神戸商工貿易センタービル).
31 Nationaal Archief. 2.05.01 Inventaris van het archief van het Ministerie van Buitenlandse Zaken, 1813-1870: 3147 1868-1870, 0121.
32 Diary of the Dutch diplomat and commissionaire Leonardus Theodorus Kleintjes, 1867-1870, TY92058899, International Research Center for Japanese Studies. 川口梅本町
33 This is based on research that Funakoshi Mikio (船越幹央) of the Osaka Museum of History (大阪歴史博物館) conducted for this study. The Hakodate Products Distribution Center (箱館産物会所) was located at Kensaki-machi (剣先町) from 1858 (Ansei 5) to 1872 (Meiji 5). The location was very close to the Foreign Settlement at Kawaguchi. Interestingly, currently the consulate general of the People’s Republic of China is located in this area.
34 Nationaal Archief. 2.05.115 Inventaris van het archief van het Nederlandse Gezantschap in Japan (Tokio), 1923-1941: 108 Kobe, 1923-1937, 0001–0002.
35 Kitahama 1-Chome Heiwa building 8B, 1-1-14 Kitahama, Chuo-ku, Osaka (大阪府大阪市中央区北浜1-1-14 北浜一丁目平和ビル8B). The Consulate-General moved to its new address between September 15 and 18, 2016. The first working day was September 19. The Consulate-general was officially opened by Osaka Mayor Hirofumi Yoshimura (吉村 洋文, 2015–2019) on November 15, 2016.
REFERENCE IMAGES
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引用文献
ドゥイツ・キエルト()・5. 神戸・大阪、出島から東京へ。2024年12月10日参照。(https://www.dejimatokyo.com/articles/45/hiogo-kobe-osaka)
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