1908年、レオン・ファン・デ・ポルダー
50. 1908年、レオン・ファン・デ・ポルダー、仮装パーティにて。 (S. Gō, ゼラチン・シルバー・プリント (銀塩写真), 211210-0014, MeijiShowa.)

人物
3. L・ファン・デ・ポルダー

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ロッテルダム • 1851年2月6日 – 1923年9月1日 • 横浜

ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックが、近代オランダ日本外交の父であるのに対し、レオン・ファン・デ・ポルダーは、公使館の魂だった。

1876年から1920年代初頭にかけて、レオン・ファン・デ・ポルダーは通訳者、書記生、書記官、最終的には参事官を務める。その間、公使が入れ替わる際の公使不在期間には臨時代理公使を務め、その回数は20回にもおよぶ。ファン・デ・ポルダーほど長く日本に駐在したオランダ外交官は他にいない。駐日オランダ公使館を象徴する人物である。

日本が近代国家に生まれ変わっていく中で、ファン・デ・ポルダーのキャリアは築かれる。1865年、彼は横浜に到着する。横浜港が国際貿易に開かれてから6年、横浜が大火に見舞われるまで1年、そして明治維新まで3年というときだった。

横浜の外国語学校で日本語を学んだ後、ファン・デ・ポルダーは、当時日本の政治に強い影響力を持っていたフランス公使館で翻訳者として働く。フランス総領事レオン・ロッシュ(1809年~1901年)は、現在はアメリカ海軍施設となった横須賀海軍工廠の建設に貢献する。

ファン・デ・ポルダーはフランス公使館を辞めた後、神戸居留地の混合裁判所で数年間翻訳者として働き、その後1876年から翻訳者兼書記官として、オランダ公使館で働き始める。彼は当時アジアに絶大な影響力を持つ外交官、イギリスのサー・ハリー・パークス(1828年~1885年)のもとで働く。パークスはオランダ外交使節が不在だった短期間、一時的にその役割を担っていたこともある。

オランダ公使館はスウェーデン、ノルウェー、デンマークの外交使節の業務を担っていたことがあり、ファン・デ・ポルダーはこれらの国の業務も行う。その功績により、ポルダーは7つの国から16もの勲章を贈られている。

ファン・デ・ポルダーは文筆家でもあり、日本の政治家である岩倉具視(1825年~1883年)や、竹の文化、日本の農業、古い硬貨についての記述を残す。英字新聞『ジャパン・クロニククル』は、ファン・デ・ポルダーの硬貨のコレクションを「大変素晴らしい」と評している。

社交的で気さくな人柄のファン・デ・ポルダーは、外務卿・井上馨(1836年~1915年)によって1884年に設立された英国スタイルの紳士クラブ「東京倶楽部」の名誉会員となった最初の人物だ。同俱楽部は現在も活動している。

1908年、レオン・ファン・デ・ポルダー。
50. 1908年、レオン・ファン・デ・ポルダー、仮装パーティにて。 (S. Gō, ゼラチン・シルバー・プリント (銀塩写真), 211210-0014, MeijiShowa.)

写真(図50)を見ると、ファン・デ・ポルダーがどんな人物であったかが窺える。ドイツ大使館で、オランダ市民の恰好をしたファン・デ・ポルダーが、ダンスに興じている。ファン・デ・ポルダーは、この写真の裏に個人的なメッセージを書き、出席していたオーストリア・ハンガリー公使館の駐在員に贈る。

ファン・デ・ポルダーと彼の妻は、横浜の山手地区に引っ越して1年で、市内を破滅させた1923年の関東大震災により命を落とす。当時ファン・デ・ポルダーは自伝を書いている最中だった。サー・アーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』に記されている出来事について、より明瞭な視点を提供できるかもしれないと語っていた。

しかし原稿は震災ですべて紛失する。もし残っていれば、彼の名前はもっと世に知られていただろう。今はわずかな記録が残るのみだ。

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主な資料

  1. Japan Chronicle, March 13, 1924年3月13日.
  2. Japan Directory 1878年〜1918年.
  3. Who’s Who in Japan, 1919年.

出版物

  1. La Pairie Japonaise. Yokohama: S. Salabelle, 1885年.
  2. Biographie de son Excellence Iwakoura. Yokohama: S. Salabelle, 1885年.
  3. Abridged history of the copper coins of Japan. Transactions of the Asiatic Society of Japan 19 (pp. 419-500), 1891年.
  4. De cultuur der Bamboe in Japan. Haarlem: Koloniaal Museum, 1894年.

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引用文献

ドゥイツ・キエルト()・3. L・ファン・デ・ポルダー、出島から東京へ。2024年12月10日参照。(https://www.dejimatokyo.com/articles/40/leon-van-de-polder)

深く知る

ヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルティウス

人物
1. J・H・ドンケル・クルティウス

出島にあったオランダ商館最後のカ ピ タ ン( 商 館 長 )であり、 日 本 で 最 初 の オ ラ ン ダ 外 交 官である。

1927年、オランダ公使パブスト。

人物
4. J・C・パブスト

1923年から1942年まで駐日オランダ公使。関東大震災や第二次世界大戦の日蘭開戦を経験した。

1869年ごろのデ・グラーフ・ファン・ポルスブルック。

人物
2. D・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルック

日本における最初のオランダ領事。非常に重要な功 績を残した駐日オランダ外交官。

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