ヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルティウス
9. ヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルティウス(1862年)。 (Robert Severin, 鶏卵紙, FA-0233A-02, Koninklijke Verzamelingen (オランダ王室コレクション), ハーグ. 一部改変.)

人物
1. J・H・ドンケル・クルティウス

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アーネム • 1813年4月21日 – 1879年11月27日 • アーネム

ヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルティウスは、出島にあったオランダ商館最後のカピタン(商館長)である。1855年には「駐日オランダ理事官」に任命されたため、日本で最初のオランダ外交官になる。

あまり知られていないが、彼は外交官として初めて日本との通商条約を締結した人物である。歴史書には、アメリカ領事タウンゼント・ハリスが締結したハリス条約(日米修好通商条約)によって日本が開港したと書かれている。しかしドンケル・クルティウスは、その9か月前に通商条約を締結していた。

1852年7月、ドンケル・クルティウスがカピタンに任命される。当時オランダ政府は、およそ215年続いた日本の鎖国を終わらせようとするイギリスとアメリカの武力行使を恐れていた。戦争になれば、中立国であったオランダも巻き込まれかねない。

そのためオランダ政府は、ドンケル・クルティウスに武力行使を避け、外国貿易に向けて港を開くよう日本政府を説得する任務を課す。チャールズ・フェルディナンド・パフドオランダ植民地大臣(1803年~1873年)は、オランダ国王ウィレム3世に秘密の書簡を送り、オランダとしての行動方針を説明している。それは「『いかなる脅威』も許容できず、戦争となった場合は一切干渉せず、中立を保つ」という内容だった。1

同様の試みは一度失敗している。1844年、ウィレム2世は「王から王へ」という書簡を将軍に送り、日本の権益のためにも、自由貿易のために開国すべきだと助言する。しかし幕府はこの提案をきっぱりと拒絶し、二度と同様の書簡を送ってこないようオランダに伝えている。2

ドンケル・クルティウスに課された任務は無謀と言えるものだった。彼は正式には外交官ではなかったのだからなおさらである。ドンケル・クルティウスは、オランダ領東インド植民地政府に法学者として雇われた身だった。

1853年にアメリカ海軍のペリー提督が、威圧的な近代的軍艦を率いて日本を訪れた際、条約交渉の最初のチャンスが訪れる。ペリーは日本に開国を迫り、返事を聞くために翌年も来日することになる。オランダ政府は、ペリーの艦隊の到着を幕府に前もって知らせていたが、それでも幕府は狼狽する。結局ドンケル・クルティウスに7隻の軍艦と大量の火噐、そして軍事に関する書物を注文することになる。3

1855年、オランダはこれに対してウィレム3世からの贈り物として蒸気軍艦スームビング号を日本に贈呈し、日本はこれを観光丸に改名。観光丸は日本初の蒸気軍艦だったので、指導者も必要になる。そのためドンケル・クルティウスは、日本人に軍艦の操縦を指導するため、オランダ海軍部隊を教師団として招聘する。

当然招聘される将校たちは、教師団として敬意ある扱いを受け、自由な行動を保障される必要があった。そのため、200年以上に渡りオランダ人を出島に閉じ込めていた厳しいルールは撤廃される。そして1856年1月、オランダ人のさまざまな権利を明文化した日蘭和親条約が締結された。

この条約を利用し、ドンケル・クルティウスは長崎と函館での貿易を許可する追加条文についても交渉。1857年10月16日に調印されたこの追加条文によって、オランダだけでなく、他国の商人たちも貿易を認められる。それらの国々と日本の間で通商条約が締結されるずっと前のことである。4

実はドンケル・クルティウスは、日米修好通商条約締結にも助力している。ハリスと連絡を取っていたドンケル・クルティウスは、1857年の追加条文調印後すぐにハリスに条文の写しを送っている。5 また、イギリス・フランス連合軍が中国と対立した第2次アヘン戦争(1856年~1860年)について、長崎の役人と話し合う場を持ったことはさらに重要である。

ドンケル・クルティウスは、第2次アヘン戦争において、英国がいかに小さな事件をねじまげて戦争を始める口実にしたのかを日本の役人に伝える報告書を書く。その報告書は広く読まれ、ハリスとの交渉で重要な役割を担った老中の堀田正睦(1810年~1864年)にも大きな影響を与える。ドンケル・クルティウスの報告のおかげで、堀田正睦は第2次アヘン戦争に関して熟知すると同時に、ハリスを無視したり、侮辱したりすることの危険性も十分理解していた。6

最終的にハリスが江戸に入ることができたのは、少なからずこの理解があったからと言える。だからこそ、ドンケル・クルティウス自身が調印に要した時間よりもはるかに迅速に条約締結に至ることができたのだ。複数の港が開かれることになった条約の締結は、日本の自由国際貿易の始まりといえる。

ドンケル・クルティウスは、悠長でものわかりがよすぎると批評されることが多い。オランダ政府から影響力のある立場を与えられていなかったドンケル・クルティウスにできることは限られていた。特に主要国の外交官たちが、政権中枢のあった江戸に公使館を設置していた時期に長崎に留まったことは大きな失敗だった。日本の外交状況が大きく変化する中で孤立したオランダの外交使節は、影響力を行使することができなくなっていく。

アメリカ領事ハリスや、イギリスの外交官たちの陰に隠れてしまっているが、ドンケル・クルティウスの功績はもっと評価されるべきである。ドンケル・クルティウスは、日本との最初の通商条約を結び、その条約は他の条約の基となり、彼の助言は、ハリスや他国の外交官たちへの幕府の対応に影響を及ぼした。彼の努力があったからこそ、外交によって戦争を避けることができたのだ。

さらには海軍将校を招聘したことにより、後の日本海軍誕生の基礎を築き、日本の科学・工学・産業、さらには医療教育の発展にも大きく寄与したのも重要な功績である。

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脚注

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  • 調査に使用した一次資料の一部は、アーカイブ(英語)をご覧ください。

1 Nationaal Archief. 2.05.01 Inventaris van het archief van het Ministerie van Buitenlandse Zaken, 1813-1870: 3141 1852 feb. – 1859 okt., 0034–0045. Secret report of March 21, 1852, from Ministry of Colonies to King Willem III:

「De Gouverneur Generaal is van oordeel dat met het vooruitzicht op die eventualiteit, onzentwege pogingen zouden behooren te worden aangewend om de Japansche Regering tot het aannemen van een ander stelsel te bewegen, en, bij mislukking daarvan, liever Japan geheel re verlaten, dan ons bloot te stellen aan het gevaar om te worden gebragt in het alternatief om of oorlog te voeren tegen machtige Staten, of dezen de behulpzame hand te bieden in den maatregelen van geweld, welke zij tegen Japan zouden nemen.

1o. om den Gouverneur Generaal te magtigen door middel van het nieuw te benoemen Opperhoofd van den handel op Japan, bij de Japansche Regering, door een schrijven van hem, Gouverneur Generaal aan te dringen, of althans een ernstig vertoog te doen, ten einde die Regering een ander stelsel aannemen dan zij tot dus ver heeft gevolgd, bij welk vertoog zal moeten worden gewezen op den zoo welmeenend door Zijne Majesteit Koning Willen II in 1844 gegeven raad, en op de waarschijnlijk spoedige verwezenlijking van de destijds voorspelde gebeurtenissen, hetgeen uit de maatregelen, welke in Noord-Amerika worden beraamd duidelijk is.

2o. om verder aan den Gouverneur Generaal te kennen te geven dat aan de Japansche Regering bij gelegenheid der boven bedoelde mededeelingen, geenerlei bedreiging moet worden gedaan, en ook niet tot het afbreken der betrekkingen met Japan, of het intrekken der Faktory te Decima moet worden overgegaan, ten ware de loop der gebeurtenissen zulks gebiedend vorderen en onvermijdelijk maken moet voor de eer en waardigheid van de Nederlandsche Regering, dat geen tuschenkomst aangeboden en ook geen partij gekozen moet worden tuschen Japan en de aanvallers ingeval het tot vijandelijkheden komen moet, maar dat, ingeval onze tuschenkomst mogt worden ingeroepen, getracht moet worden, die tot eene gewenste en goede uitkomst te doen strekken.

3o. Om de Nederlandsche Legatie bij de Vereenigde Staten van Noord Amerika bekend te maken met den brief in 1844 door Z. M. Koning Willem II aan den Keizer van Japan geschreven, ten einde daarvan, op eenen geschikte wijze, gebruik te kunnen maken om het Amerikaansche Gouvernement op de hoogte te stellen van de demarches reeds toen door Nederland gedaan, om de Japansche Regering tot andere beginselen te nopen.」

2 Jacobs, E. (1990). Met alleen woorden als wapen. De Nederlandse poging tot openstelling van Japanse havens voor de internationale handel (1844). BMGN – Low Countries Historical Review, 105(1), 54–77.

3 McOmie, W. (2006). The Opening of Japan, 1853–1855: 10 The Dutch, British, Russians (and Americans) in ‘Opened’ Japan. Leiden: Brill, 326–372.

4 Pompe van Meerdervoort, Jhr. J. L. C. (1868). Vijf jaren in Japan. (1857-1863): Bijdragen tot de kennis van het Japansche keizerrijk en zijne bevolking. Tweede Deel. Leiden: Firma Van den Heuvel & Van Santen, Hoofdstuk VI, 14.

5 Nakanishi Vigden, Michiko (October 1987). Bulletin of the Japan-Netherlands Institute Vol. 12 No. 1 (No. 23). The Correspondence between Jan Hendrik Donker Curtius and Townsend Harris (47–78), 53.

6 Masuda, Wataru, Fogel, Joshua A. (2000). Japan and China: Mutual Representations in the Modern Era. New York: Palgrave Macmillan, 46.

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引用文献

ドゥイツ・キエルト()・1. J・H・ドンケル・クルティウス、出島から東京へ。2024年06月16日参照。(https://www.dejimatokyo.com/articles/55/1-jan-hendrik-donker-curtius)

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2. D・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルック

日本における最初のオランダ領事。非常に重要な功 績を残した駐日オランダ外交官。

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